No.004-埼玉医大抗癌剤過剰投与事件と横浜市大患者取り違え事件

弁護士・医学博士 金ア 浩之

 

(1)大学病院は本当に安全か

 

大学病院というと、高度先進医療を実践し、病院の規模から考えても日本で最高水準の医療を受けられるというのが一般的な認識だと思います。

 

これ自体は間違いではないのですが、意外と看過されてしまう盲点があります。もちろん、大学病院で提供される医療水準のレベルは高く、その点では安心してよいのですが、稀に信じがたい医療ミスが起こります。しかも、それは大学病院であるが故に起こりやすいというタイプの医療ミスなのです。

 

そのような事例として、埼玉医大抗癌剤過剰投与の医療過誤事件と、横浜市大でおきた患者取り違え事件を紹介します。この事件は2つとも刑事事件にまで発展した重大事件という点で共通しています。
なお、このようなことが大学病院で頻繁に起こるわけではありませんので、大学病院で治療を受けることに過剰な不安を抱かないでください。「こんなこともあるんだなあ」という次元でご理解下さい。

 

(2)埼玉医大抗癌剤過剰投与事件(最高裁平成17年11月15日)

 

この事件は、大学付属病院で骨膜肉腫の摘出手術を受けた患者さん(当時16歳)に対して、抗癌剤治療のVAC療法(硫酸ビンクリスチン、アクチノマイシンD、シクロフォスファミドの抗癌剤3剤併用療法)が実施されました。

 

その際に、医師経験5年目の主治医が、VAC療法のプロトコールを文献で調べた際に、「Week」の文字を見落として、日単位と勘違いし、1週間間隔で投与すべき抗癌剤を毎日連日投与してしまったのです。
その結果、投与開始後7日目に血小板の急激かつ大幅な減少が見られ、その4日後に多臓器不全により患者さんは死亡しました。

 

この患者さんの治療には、先の医師経験5年目の主治医のほか、医師経験9年目の専門医が指導医として参加し、これに3名の研修医が加わるというチーム医療が組まれていました。

 

なぜこのような重大な医療ミスが起こってしまったのかというと、この事件には特殊事情もありました。それは、患者の罹患した疾患が極めて稀な疾患で、この治療に参加したチームの中に、経験者がいなかったことです。
有病率の高い胃癌や肺癌に対する抗癌剤治療でこのような事故が大学病院で起こるとは考えにくいです。

 

大学病院で経験した医師がいないのに治療が行われるなんてことがあるのかと思われるかもしれませんが、大学病院であるが故に稀な疾患が持ち込まれるとも言えます。

 

そして、この事件では、チーム医療の体制にも問題がありました。そして、それが本件で致命的な結果を招いたのです(稀な疾患であったことが問題の本質ではありません)。

 

まず、この5年目の主治医がVAC療法を計画するのですが、これを承認した上級医である専門医は、この治療のプロトコールや薬剤の添付文書を読んでおりません。

 

次に、この治療の最終責任者の地位にいた教授は、投与開始の翌日に教授回診でこの患者さんを診察しているのですが、主治医から教授に対して、VAC療法が施行されている旨の報告があっただけで、具体的な治療計画は示されていなかったのです。それなのに、教授は、この主治医の治療方針を了承してしまいました。

 

そして、この事件は、冒頭で述べたとおり、刑事裁判にまで発展しました。一審のさいたま地方裁判所は、VAC療法を実施した主治医、指導医、総責任者の教授3者に対して、業務上過失致死罪の成立を認めて有罪判決を言い渡しました(さいたま地判平成15年3月20日)。
主治医はこの判決を受け入れましたが、指導医と教授はこれを不服として控訴。控訴審は、一審が認定した過失の一部を変更しましたが、有罪判決を維持しました(東京高判平成15年12月24日)。
指導医はこの判決を受け入れましたが、総責任者であった教授は最後まで不服で、最高裁に上告しました。しかしながら、最高裁も上告を棄却し、有罪判決は維持されたのです。

 

なぜ、このようなチーム医療が実施されてしまったのかというと、このチーム医療に参加していた医師の間に信頼関係があったからだと思います。主治医の上級医であった専門医がプロトコールや薬剤の添付文書を自ら確認したかったのは、主治医を信頼していたからでしょう。教授が主治医の治療方針を了承してしまったのも同様に、主治医に対する信頼関係が前提となっていたはずです。

 

しかし、本件では、ここで稀な疾患で経験のある医師がいなかったことが影響してきます。本件では、稀な疾患であるが故に慎重な対応が求められる症例でした。

 

医療において、いわゆる信頼の原則が適用されることは一般的な判例の傾向ではありません。私の知る限り、有名な事件だと、北海道大学付属病院で起こった電気メス事件くらいだと思います。しかも、約半世紀前の古い事件です(札幌高判昭和51年3月18日)。
チーム医療において、そのチームに参加している他の医師、看護師の処置を信頼して疑わないというのは、特にチーム医療の機会が多い大学病院では十分に注意する必要があります。

 

(3)横浜市大患者取り違え事件(最高裁平成19年3月26日)

 

この事件も、先の埼玉医大抗癌剤過剰投与事件と同様に、刑事裁判にまで発展した有名な事件です。

 

事件の概要は、心臓手術予定の患者と肺癌手術予定の患者を取り違えて手術を行ってしまい、業務上過失傷害で関係者の医師らが起訴されたというものです。心臓手術も肺癌手術もどちらも侵襲性の大きい大手術ですから、患者さんたちが死亡したわけではないとはいえ、被害は深刻です。

 

そして、各手術の麻酔医、執刀医、看護師の合計6名が起訴されました。

 

一審の横浜地方裁判所は、心臓手術側の麻酔医だけ無罪とし、残りの5名については有罪としました(横浜地判平成13年9月20日)。有罪となった5名は全員控訴したようですが、無罪となった麻酔医については検察官が控訴しております。ところが、控訴審は、一審で有罪となった5名の有罪判決を維持するとともに、一審で無罪となった麻酔医も有罪としたのです(東京高判平成15年3月25日)。逆転有罪となったこの麻酔医だけ、判決に不服で最高裁に上告しましたが、上告は棄却され、この麻酔医も最終的には有罪となってしまったのです(最判平成19年3月26日)。

 

興味深いのは、一審で無罪となった麻酔医が、二審、最高裁で有罪と判断されたのはなぜなのか、という点です。これを比較すると、チーム医療で起こった医療事故に対する信頼の原則の適否について、司法がどのように考えているかを知ることができます。
なぜ、この麻酔医だけが一審で無罪となったのかというと、この事件に関与した医療従事者6名のうち、この麻酔医だけが患者の取り違えを疑って、確認のための一応の措置を採っていたからです。

 

この麻酔医は、術前回診の際に、患者の容貌や所見が手術予定者のものと異なっていることに気づいたことから、先輩の医師らに疑問を延べ、看護師に病棟への問い合わせをさせるなどの措置をとっていました。
そのため、一審では、この麻酔医は自らの注意義務を尽くしたものと判断され、無罪判決が言い渡されたのです。

 

ところが、二審と最高裁は、麻酔医が採った措置だけでは患者の確認作業としては不十分であり、注意義務を尽くしたとは言えないとして、有罪にしております。最高裁は、次のように判示しました。
「他の関係者に対しても疑問を提起し、一定程度の確認のための措置は採ったものの、確実な確認作業を採らなかった点において、過失があるというべきである」と判断したのです。

 

そもそも、経験が浅かったこの麻酔医が、せっかく経験豊富な先輩医師らに疑問を呈したのに、相談を受けた先輩医師らは、患者取り違えの可能性を否定してしまいました。
そのため、患者を取り違えたまま手術が施行されてしまったのです。ここから、チーム医療における信頼の原則に関する裁判所の厳しい考え方が伝わってきます。要するに、経験が浅い医師であっても、ベテラン医師の判断を信頼してはダメだということです。疑ったのであれば、その疑いが確実に払拭できるような措置を採らなければならないということなのです。

 

そうだとすると、チーム医療において、信頼の原則が適用されるケースは、極めて限られているということになると思います。

 

(4)最後に

 

有名な埼玉医大抗癌剤過剰投与事件と横浜市大患者取り違え事件を取り上げましたが、この2つの事例に共通するのは、いずれも大学病院で起こった事件であること、チーム医療で起こった事件であること、チーム医療における信頼の原則の適用を否定したことです。

 

もちろん、最高裁は、チーム医療において、信頼の原則の適用を一律に排除したわけではありません。あくまでも、それぞれの事件の事情に照らして、信頼の原則を否定したに過ぎません。

 

しかしながら、その論旨を読むと、チーム医療に信頼の原則を適用することに関しては、最高裁はかなり消極的であると言えると思います。したがって、とりわけチーム医療の実施する機会が多い大学病院等においては、チーム医療に携わっている医療従事者相互の信頼関係を前提に医療行為を行うことには、極めて大きなリスクを伴うので十分な注意が必要です。

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