弁護士・医学博士 金ア 浩之
医療ミスにおける医師や医療機関の法的責任を不法行為論(Torts)で説明するのであれば、諸外国とわが国の法体系にさしたる違いはないはずである。なぜなら、不法行為の法体系で考える以上、その成立要件の内容は、過失(negligence)、損害(damages)、過失と損害との間の因果関係(causation)だからである。
そこで、不法行為における過失や因果関係について、諸外国の裁判例がどのような判断基準を示しているのかを知ることは有益である。とりわけ、医療訴訟においては、その高度な専門性から過失の認定は容易ではなく、また、因果関係についても患者の個体差や未解明な医学的機序も踏まえると、それを立証することは困難を極める。このように、医療訴訟において過失や因果関係を検証する際の高い障壁は、諸外国の司法も直面しているはずであり、この困難な問題にどのように取り組んでいるのかは気になるところである。
そこで、今回は、とりわけその認定が困難を極める因果関係論について、イギリスの裁判例の傾向を紹介したい。
不法行為の因果関係を判断する枠組みとして、イギリスの裁判例に、but for testという古典的な判断基準がある。
この判断基準を分かりやすく表現すると、英語では次のように要約できる。
The event would not have occurred but for the negligence.(仮にその過失がなかったならば、そのイベントは発生しなかったであろう)。
この判断手法は、わが国の因果関係論における法体系では条件関係と呼ばれる。「A(原因)がなければB(結果)もない」という条件関係が成立それば、A(原因)があったから、B(結果)が発生した」と評価することができる。
この条件関係の「Aがなければ」という部分は、医療訴訟の場合は、「医師の過失がなければ」という意味になるので、「医師が注意義務を尽くしていれば」と読み替えることができる。したがって、原告(患者側)は、「医師が注意義務を尽くしていれば、その結果は発生しなかった」ことを医学的に立証しなければならないことになる。
この判断手法を医療訴訟にそのまま適用すれば、多くの事案で因果関係は否定されることになるであろう。なぜなら、患者が有していた疾患自体が結果の発生に寄与した可能性が否定できなことも多く、また、診療の過程で何らかの不可能力が関与した可能性もあり、さらに患者の個体差が大きいために結果発生に至るリスクの高低や具体的な機序も異なりうるからである。
要するに、仮に医師が注意義務を尽くし適切な診療行為を実施したとしても、患者に発生した不幸な結果は回避できなかったのではないか、という疑問が常につきまとうのである。実際に、イギリスの裁判例でも、but for testの判断手法を用いて因果関係を検討したものは棄却例が多い。
このようなイギリスの裁判例が示したbut for testの法理に近いわが国の裁判例として、最高裁が示した「高度の蓋然性理論」を指摘できる(ルンバ−ルショック事件判決、最高裁昭和50年10月24日第二小法廷判決)。この最高裁判例は、but for testそのものではないが、結果を回避できた高度の蓋然性を要求していることから、イギリスの裁判例にみられるbut for testの法理に通ずるものがある。
このmaterial contribution testという判断基準は、医師の過失以外に、結果の発生に因果的影響を与えた他原因が存在したとしても、当該医師の過失の結果発生に与えた影響がmaterialであると評価できる場合には、その過失と結果発生との間の因果関係を肯定するという考え方である。
そうすると、次に問題となるのは、materialとは何かである。この点に関し、イギリスの裁判例には、次のようなものがある。
A claimant does not even have to prove that the wrongful act was the principal cause of his injury or illness.
要するに、material contributionは、必ずしもprincipal causeであることを必要としない。医師の過失が、結果発生の主たる原因でなくてもよいということになる。さらに次のような裁判例も参考になる。
Any contribution which does not fall within that exception must be material.
すなわち、想定されるその原因が、結果発生への機序として例外的事象と評価されなければ、その原因はmaterialなものと判断される余地がある。
そうすると、医師の過失が当該結果の発生に対して例外的な機序といえる内容でなければ、その医師の過失は結果発生に向けてmaterialに貢献したものと判断されて、因果関係が肯定される可能性があることを意味する。
冒頭の問題意識でも触れたように、医療訴訟における立証の困難性には、イギリスの司法でも直面していることがうかがえる。
特に、因果関係の存否については、医師の過失が肯定されていることを前提とするため、医師の過失が明らかであるのに、因果関係の存否が真偽不明のため医師の責任が否定されることになり、著しく結論の妥当性を欠くことになる。
この点を考慮すると、イギリスの裁判例が、伝統的なbut for testという厳格な判断準則から、緩和されたmaterial contribution testへと移行したのは、方向性としては正しいと考えられる。そして、因果関係の存否は、過失の存在を前提としているので、このような緩和された判断準則は、必ずしも医師の責任を不当に拡大させるものではない。
しかしながら、医師が責任を負うべき損害の範囲に関しては、この判断準則は、医師の責任を不当に拡大させる余地を残している。というのも、この判断準則によって因果関係が肯定されてしまうと、医師の過失以外の他原因の中に結果発生に強い影響力を持った原因が存在したとしても、医師は、患者に生じた損害全額について、賠償責任を負うことになるからである。
結果に影響を与えた他原因は、医師の責任との関係では不可抗力ともいうべきものであるのに、他原因が結果に影響した部分まで医師のみに負担させるのは、必ずしも公平ではない。この法理をわが国の司法がそのままのかたちで導入するには消極的な姿勢にならざるを得ないものと考える。