弁護士・医学博士 金 ア 浩 之
患者は,東京拘置所において未決勾留中であったところ,平成13年4月1日午前7時30分頃,患者の様子の異変に気づいた職員が東京拘置所の医務部に連絡したため,医師の診察を受けた。当該医師は,頭蓋内病変を疑って,同日午前9時3分頃,頭部CT検査を実施して脳梗塞と診断し,脳浮腫に対する処置を行うこととした。しかしながら,翌2日午前9時27分頃,頭部CT検査で脳浮腫の進行が認められたため,同日午前10時頃,東京拘置所での治療は困難と判断されて,同日正午頃,警察病院を含むいくつかの病院に患者の受入れを打診したが断られ,ようやく受入れ先の病院が決まり患者が搬送されたのは,同日午後3時41分であった。そして,当該病院において,脳浮腫に対する緊急開頭減圧術が実施されたが,患者には重度の後遺障害が残った。
一審(東京地判平成16年1月22日)は,転送義務違反を認めたうえで期待権侵害を理由に慰謝料100万円を認容したが,原審(東京高判平成17年1月18日)は,患者の請求を棄却した。この原審の判決を不服として,患者側が上告した。
最高裁は、前記平成15年判決を引用したうえで,「(1)第1回CT撮影が行われた4月1日午前9時3分の時点では,上告人には,血栓溶解療法の適応がなかった,(2)それより前の時点においては,上告人には,血栓溶解療法の適応があった可能性があるが,血栓溶解療法の適応があった間に,上告人を外部の医療機関に転送して,転送先の医療機関において,血栓溶解療法を開始することが可能であったとは認め難い,(3)東京拘置所においては,上告人の症状に対応した治療が行われており,そのほかに,上告人を速やかに外部の医療機関に転送したとしても,上告人の後遺症が軽減されたというべき事情は認められないのであるから,上告人について,速やかに外部の医療機関への転送が行われ,転送先の医療機関において医療行為を受けていたならば,上告人に重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたということができない」と判示した。
なお、本最高裁判決には、相当程度の可能性侵害の証明がなされなかった場合における医師の損害賠償責任の成否について、次のような島田・才口裁判官の補足意見、横尾・泉裁判官の反対意見がある。
〔補足意見〕
島田裁判官:「検査、治療が現在の医療水準に照らしてあまりにも不適切不十分なものであった場合には、……損害賠償責任を認めるべき場合があることを認めるにやぶさかでない。」
才口裁判官:「医師の検査、治療等が医療行為の名に値しないような例外的な場合には、……損害賠償責任を認める余地がないとはいえない。」
〔反対意見〕
横尾・泉裁判官:「専門医による医療水準にかなった適切な検査、治療等の医療行為を受ける利益を侵害したことに係る精神的損害を賠償すべきである。」
この最高裁判決は、2つの重要な論点を含んでいる。
ひとつは、相当程度の可能性侵害の判断枠組みに関するものである。もうひとつは、相当程度の可能性の存在が証明されなかった場合における不法行為責任の成否に関するものである。後者については、島田・才口裁判官の補足意見、横尾・泉裁判官の反対意見が付されていることから、本最高裁判決は、後者の論点との関係で重要判例として紹介されることが多い。しかしながら、前者の論点との関係では、最高裁が抽象的な判断枠組みから具体的な判断枠組みへと、その判断手法を変更したとものと理解する見解も有力に主張されていることから、前者の論点も看過できない。
そこで、まず、前者の論点から考察したい。米村は、「相当程度の可能性」の概念について、(@)行為時点で評価される抽象的な生存等の可能性をいうものとする理解と、(A)行為後の事実経過の中で措定される具体的な生存等の可能性をいうものとする理解に分類した上で(注1)、最判平成15年11月11日民集57巻10号1466頁と最判平成16年1月15日判時1853号85頁の各最高裁判決を抽象的「可能性」理解に立つものと位置づける一方で、最判平成17年12月8日判時1923号26頁については、具体的「可能性」理解に立つものとしている(注2)。この分析が正しいとすると、最高裁が、抽象的「可能性」理解から、具体的「可能性」理解へと、その判断枠組みを変更した可能性が示唆される。しかしながら、このような理解の仕方には与できない。そもそも、最高裁平成15年、平成16年判決は、有効な治療法が存在し、かつ、その治療法が当該患者に対しても適応があり、さらに、その治療が奏功しない特段の事情も認められないことを前提に、より早期に治療が開始されれば予後の改善が事実上推定されるという経験則を採用したに過ぎないと理解することができ、行為時点で評価される抽象的な生存等の可能性の証明をもって、相当程度の可能性の証明があったとしているわけではない。これに対して、最高裁平成17年判決は、当該患者に対して、有効な治療法の適応がなく、事実上の推定の基礎を欠いている事案であった。したがって、最高裁平成15年、平成16年判決と、平成17年判決との間に判断枠組みの変更はなく、これら3つの最高裁判決は全て両立するものと解すべきである。大島も同様の理解を示している(注3)。
次に、後者の論点は、患者の被侵害利益がいわゆる期待権のみの場合であっても、医師に不法行為責任が生じるかという問題である。本最高裁判決の多数意見は、否定説を採用し、「現在の医療水準に照らしてあまりにも不適切・不十分なもの」(島田)、「医療行為の名に値しない例外的な場合」(才口)には、不法行為責任の成立を肯定する余地を残すという補足意見が付されている。いずれにせよ、原則として、単なる期待権侵害のみの場合は、不法行為責任の成立は否定すべきということになる。これに対して、横尾・泉反対意見は、期待権侵害のみの場合であっても、不法行為責任の成立を認めるべきであると論じていると読むのが素直であるが、この反対意見の理解には注意が必要だと思われる。というのも、最高裁平成17年判決は、患者が刑事被告人として刑事施設に収容されている事案に関するものであり、国が患者の生殺与奪の権を握っているという特殊性がある。反対意見も、この点について言及しており、「国は、一方的・強制的にその身体の自由を拘束しているのであるから、刑事被告人が疾病にかかっているときは、必要な医療上の措置を執るべき」であるとしている。この点を重視するのであれば、多数意見と同様に、原則として不法行為責任の成立を否定したうえで、患者が刑事施設において身柄拘束されているケースも例外に加えるというアプローチも可能なように思われる。なお、本最高裁判決の多数意見は、最判平成23年2月25日判タ1344号110頁においても踏襲されている。
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(注1)米村滋人「『相当程度の可能性』法理の理論と展開」法學74巻6号(東北大学法学会、2011)914頁。
(注2)米村・前掲(1)919頁。
(注3)大島眞一「医療訴訟の現状と将来−最高裁判例の到達点−」判タ1401号(2014)63頁。